066418 ランダム
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ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

もうすぐ来る冬を前に

もうすぐ来る冬を前に


「カナエさん、いつまでこの会社にいるの?」
 
あの言葉って、もしかして肩たたきだったのかしら。
私は、お風呂の中で本を読みながら、ふと思い出していた。
土曜の出勤前の午前中、いつものように胸より少し下まで、柔らかい温度のお湯につかっている。
フランス作家の翻訳本の、ちょうど真ん中あたりに差し掛かったところで、
突然にそんなことが頭を過ぎった。
あれから三年の月日が流れた。
上司からある日、さり気ない立ち話で、訊かれた。

「やりたいことあるんでしょ。いつまでもこの会社にいたって仕方ないよ」
 
私はその言葉を真に受けて、自分の心の声に耳を改めて傾けた。
ずっと小さいころから憧れていた女優という職業。
五年勤めていた会社は、親会社の経営不振の影響を諸に受けて、
子会社各社もリストラ敢行を検討している頃だった。
社長秘書付きアシスタントをしていた私は、どの社員よりもその実情を知っていた。
けれど、私の頭のなかはどちらかというと、
会社の行く末より自分の近い将来のことを中心に動いていた。
私を可愛がって育ててくれた上司が辞めたあと、仕事に対しての一心不乱さが薄くなっていた。

ほかのことを考えたり、悩んだりする時間もないほどに毎日毎日新しいことの連続で、
新人だからという理由は一切なく、
最初から責任のある仕事を任されていたから、
もうそれこそ終わりかけた恋に泣き暮れる暇もなかった。
気づいたら、恋人の存在が私の生活から消えていたことも、何度かあった。
仕事の忙しさのせいではなく、そうなる運命だっただけの恋だったけれど。
本当は、その反対だった気もしている。
終わりかけていることを感じる恋にすがって、電車の床ばかり見つめているのが厭だった。
正面から見つめるのが怖くて、忘れようとして仕事にのめりこんだ。
それが結果としてよかったのかどうか、よくわからない。
 
仕事を通して、どうやって自分の望む世界と繋がっていこうかということばかり考えて働いていた。
会社や仕事を自分のために利用することを考える余裕が出てきていた頃に、
別部署の課長からそんな言葉をかけられたのだ。
自分のことばかり考えていた私は、とても呑気だった。

「この人、これでけっこう人のことわかるんだ。少し見直したわよ」くらいの気持ちで、
その言葉から二ヶ月後、
社長秘書と秘書室長に引き止められながらも、私は会社を辞めていた。
正直、引き止められるとは思っていなかった
――リストラ開始直前状況だった――ので、おかしいような、
それはちょっとあまりに形式的すぎやしないかと、内心で苦笑しながらも、
彼らの態度や反応に妙に納得していた。

今日はこれから、バイト先のカフェへ出かけていく。
私は退社後、必死にお金をためて東京へ出、俳優を輩出している小さなプロダクションに所属した。
そして現在、ようやくドラマのレギュラー出演のチャンスを手にできるくらいにまでなった。
それでも三ヶ月クールのドラマで、もらえる給料はと云えば手取り十五万円程度。
三ヶ月で十五万。
とてもではないけれど、生活などしていけない。
だから、バイトをしながら演技の勉強をしていた。
まずはじめに映画になった作品の原作を読み、
自分の頭のなかでいくつもの役になりきって、演出や設定を想像し、
自分がこれだと思う段階にたどり着いた段階で、映画を観る。
自分の想像と何が違うのか、どこが同じで、どんな方法や表情があるのかを感覚として知ること。
これは一人で可能なことだった。
 
前の会社で、あの一言がなかったら、私はまだあそこにいただろうか。

私はそんなことを想い描きながら、一度、肩まで躰をお湯の中に沈めた。
入浴剤のせいで薄く桃色に染まった透明なお湯は、私の膝を屈折させて浮かせている。
ペディキュアを縫った両の足の指先が、温められて薔薇色になっていた。
眼覚めてすぐに開けたカーテンの外には、
眩しいけれど優しい柔らかな冬の陽の光が注ぎ、遠くのマンションの生成色に反射していた。
たっぷり一時間ほど浸かったあとで、バスタブの栓を抜き、
私はシャワーのお湯で顔や躰を洗う。
熱い流れが、私の頭のなかを覚醒させる。
躰の隅々まで、足や手の末端まで温度が行き渡り、運動能力や思考回路が息を吹き返す。

「いつまでこの会社にいるの?」
 
さっきから、何度目かの記憶を思い起こしながら、
だんだんと、うきうきしてきた。
その会社の同僚にも、その上司にも、東京での生活や仕事のことは一切報告していない。
ただ、女優になりたいので、と云い残して去っただけだった。
それから三年。
今ではあの言葉が肩たたきだったのかそうでなかったのかは、
もう本当にどうでもいいことだった。
それなのに、どうして今頃そんなことを思ったりしたんだろう。
一度だって考えたこともなかったのに。
 
セリフのない小さな、出演したと誰にも報告できないような役をいくつも経験して、
ようやくここまで来て、私のなかにはようやっと、
自分に対しての自信が生まれつつあった。
何が起こっても、何を云われても、
もう私は迷わずに自分の進みたい道を歩いていくことができると。
誰の言葉でもなく、自分の心の声に耳を傾け、選択していけると。
 
白いタンクトップのうえに、ウールの太いリブ編みのセーターを羽織り、
私は外出する準備を始めていた。
冬の太陽の陽射しのもとへと、顔をあげながら、深呼吸と一緒に。




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